読んだ後、なんにも残らない、なんにも覚えていない、でも、ああ、読んだなあ、って感じだけがある小説

『こどもの一生』(集英社文庫)を読み返したんですが、いしいしんじさんが解説で、

 

小説の価値、という点に戻れば、中島らもにとって小説は、人間のするあらゆる行いのなかで、一見もっとも余計で、あろうがなかろうが別にどうだって構わず、しかし、どういうわけか、人間が人間をやりはじめたころからずっと誰かが、細々とそれらしいことをやっているという、いってみれば、数少ない「わからない」ものの筆頭にあったのではないか。わからないから、近寄ってみる、というぐらいのもので、それで何かを伝えようとか、新しい価値を世に出そうとか、意図をもって小説を選んだ、ということはおそらくなかった。彫刻家が粘土に、画家が絵の具に近づいていくように、中島らもは小説に近づいた。あるいは、気がついたら小説のそばにいた。中島らもは小説に近しさを感じ、読み、そして書いた。書いてみるといっそう「わからない」度合いが増し、次々と書くようになった、と、そんなような気がする。内からわき上がる、といったものでなく、つまり自己表現としてではなく、周囲のわかりすぎる世界にささやかな破れ目をあける、理路整然と並んだ事象のあいだに、半透明な生き物を無軌道に飛びまわらせる、といった感じで、小説を書き、それを自分の外に置いた。「こんなのが出来たのか」としばらく見つめ、「わからんな」とつぶやき、また次を書く。

 

と書いてらっしゃって、スゲーわかると思いました。

 

あ、昨日から『真・事故物件 本当に怖い住民たち』が全国ロードショーらしいです。