昭和神風連事件 第二回公判(昭和八年七月十九日)

三島由紀夫の『豊饒の海』全四巻を読んでいるのですが。

 

 

 

第二巻の『奔馬』が凄すぎたので、以下メモとして引用させていただきます。

 

 

 

奔馬 豊饒の海 第二巻』(新潮社版) 371頁〜

 

裁判長 飯沼被告はだな、あるいは決行といひ、あるいは志といふが、……その点は供述書にもいろいろ言ってをるが、志と決行との間の関連をどう考えてをるか?

飯沼 ……は?

裁判長 つまりだな。なぜ志だけではいかんのだ。憂国の志だけではいかんのだ。その上、決行などといふ違法の行為を目ざさねばならんのだ。そこのところを申してみよ。

飯沼 はい。陽明学知行合一と申しますが、「知って行わざるは、ただこれ未だ知らざるなり」という哲理を実践しようとしたものであります。現下日本の退廃を知り、日本の未来を閉ざす暗雲を知り、農村の疲弊と貧民階級の苦難を知り、これがことごとく政治の腐敗と、その腐敗をおのれの利としている財閥階級の非国民的性格にあると知り、おそれ多くも上御一人の御仁慈の光を遮る根がここにあると知れば、「知って行ふ」べきことはおのづから明白になると思います。

裁判長 それほど抽象的でなくだな、多少長くなってもよいから、お前がどう感じ、どう憤り、どう決意したか、という経過を述べてみよ。

飯沼 はい。私は少年時代は剣道に専念していたのでありますが、明治維新のころは剣を以て青年が実際に戦い、不正を討ち、維新の大業を成就したのだと思ふと、竹刀による道場剣道といふものに、いひしれぬあきたりなさを感じるやうにもなってをりました。しかしそのころは、特に自分がどういう行動をすべきだ、といふ風には考へが固まってをらなかつたのであります。

 昭和五年に、ロンドンの軍縮会議がひらかれ、屈辱的な条件を押しつけられ、大日本帝国の安全は危ふくされたと学校でも教はりまして、国防の危機に目ざめたころ、例の濱口首相が佐郷屋氏に狙撃されるといふ事件が起りました。日本をおほふ暗雲は只事ではないと思ひ、それから先生や先輩から時局の話を伺ったり、自分でもいろいろ読書をするやうになりました。

 だんだん社会問題にも目がひらけ、世界恐慌から引きつづいている慢性の不況と、政治家の無為無策におどろくやうになつたのであります。

 二百萬におよぶ失業者の群は、それまで出稼ぎをして仕送りをしていたのが、今度は帰村して農村の窮乏をいやましにすることになりました。旅費がなくて歩いて国へかへる人のために、藤澤の遊行寺でお粥の接待をしたところ、大へんな繁昌であったといはれています。しかも、政府はこうやうな深刻な問題もどこ吹く風で、当時の安達内相なども、

「失業手当などやると、遊民惰民を生ずるから、さういふ弊害を極力防がうと考へて居る」

 とうそぶいていたのであります。

 翌六年には東北地方や北海道は大凶作に襲はれ、売れるものはみな売り、家も土地もとられて、一家が馬小屋に住み、草の根や団栗でやうやく飢えを凌ぐといふ状態になりました。村役場の前にも、

「娘身売の場合は当相談所へお出下さい」といふ掲示が貼り出され、売られてゆく妹に泣く泣く別れて出征してゆく兵士はめづらしくなくなりました。

 凶作の上に、金解禁下の緊縮財政は、ますます農村へ負債を負はせ、農業恐慌は極点に達し、豊葦原瑞穂国は、民草が飢えに泣く荒地と化したのであります。しかも外地米の輸入で、国中お米があふれているのに、それがますます米価を暴落させ、一方、小作農がふえて、つくった米の半分は小作料としてとりあげられ、百姓の口に入る米は一粒もなくなってしまひました。農家には一円の金もなく、すべてが物々交換で、煙草の敷島一箱が米一升、散髪するのに米二升、蕪百把がゴールデン・バット一箱、繭は三貫でたった十円、といふ具合になりました。

 御承知のとほり、小作争議はしきりに起り、農村は赤化の危険にさらされ、皇国の兵士として忠良なる臣民として召される壮丁の胸のうちは、愛国の一念に澄み切ることもならず、その災ひは軍隊にさへ及ばうとしているのであります。

 これらの窮状をよそに、政治は腐敗の一路を辿り、財閥はドル買などの亡国的行為によつて巨富を積み、国民の塗炭の苦しみにそつぽを向いてをります。いろいろな読書や研究をしました結果、現在の日本をここまでおとしめたのは、政治家の罪ばかりでなく、その政治家を私利私欲のために操っている財閥の首脳に責任があると、深く考へるやうになりました。

 しかし、私は決して左翼運動に加はらうとは思ひませんでした。左翼は畏れ多くも陛下に敵対し奉らうとする思想であります。古来日本は、すめらみことをあがめ奉り、陛下を日本人といふ一大家族の家長に戴いて相和してきた国柄であり、ここにこそ皇国の真姿があり、天壌無窮の国体があることは申すまでもありません。

 では、このやうに荒廃し、民は飢えに泣く日本とは、いかなる日本でありませうか。天皇陛下がおいでになるのに、かくまで澆季末世になったのは何故でありませうか。君側に侍する高位高官も、東北の寒村で飢えに泣く農民も、天皇の赤子たることには何ら変りがないといふのが、すめらみくにの世界に誇るべき特色ではないでせうか。陛下の大御心によって、必ず窮乏の民も救はれる日が来るというのが、私のかつての確信でありました。日本および日本人は、今やや道に外れているだけだ。時いたれば、大和心にめざめて、忠良なる臣民として、挙国一致、皇国を本来の姿に戻すことができる、といふのが、私のかつての希望でありました。天日をおほふ暗雲も、いつか吹き払われて、晴れやかな明るい日本が来る筈だ、と信じてをりました。

 が、それはいつまで待っても来ません。待てば待つほど、暗雲は濃くなるばかりです。そのころのことです。私が或る本を読んで啓二に打たれたやうに感じたのは。

 それこそ山尾綱紀先生の「神風連史話」であります。これを読んでのちの私は、以前の私とは別人のやうになりました。今までのやうな、ただ坐して待つだけの態度は、誠忠の士のとるべき態度ではないと知ったのです。私はそれまで、「必死の忠」といふことがわかっていなかったのです。忠義の焔が心に点火された以上、必ず死なねばならぬといふ消息がわからなかつたのです。

 あそこに太陽が輝いています。ここからは見えませんが、身のまはりの澱んだ灰色の光りも、太陽に源していることは明らかですから、たしかに天空の一角に太陽は輝いている筈です。その太陽こそ、陛下のまことのお姿であり、その光りを直に身に浴びれば、民草は歓喜の声をあげ、荒蕪の地は忽ち潤うて、豊葦原瑞穂国の昔にかへることは必定なのです。

 けれど、低い暗い雲が地をおほうて、その光りを遮っています。天と地はむざんに分け隔てられ、会えば忽ち笑み交はして相擁する筈の天と地とは、お互ひの悲しみの顔をさへ相見ることができません。地をおほふ民草の嗟嘆の声も、天の耳に届くことがありません。叫んでも無駄、泣いても無駄、訴へても無駄なのです。もしその声が耳に届けば、天は小指一つ動かすだけでその暗雲を払い、荒れた沼地をかがやく田園に変えることができるのです。

 誰が天へ告げに行くのか? 誰が使者の大役を身に引受けて、死を以て天へ昇るのか? それが神風連の志士たちの信じた宇氣比であると私は解しました。

 天と地は、ただ坐視していては、決して結ばれることがない。天と地を結ぶには、何か決然たる純粋の行為が要るのです。その果断な行為のためには、一身の利害を超え、身命を賭さなくてはなりません。身を龍と化して、龍巻を呼ばなければなりません。それによって低迷する暗雲をつんざき、瑠璃色にかがやく天空へ昇らなければなりません。

 もちろん大ぜいの人手と武力を借りて、暗雲の大掃除をしてから天へ昇るといふことも考へました。が、さうしなくてもよいといふことが次第にわかりました。神風連の志士たちは、日本刀だけで近代的な歩兵営に斬り込んだのです。雲のもつとも暗いところ、汚れた色のもつとも色濃く群がり集まった一点を狙へばよいのです。力をつくして、そこに穴をうがち、身一つで天に昇ればよいのです。

 私は人を殺すといふことは考えませんでした。ただ、日本を毒している凶々しい精神を討ち滅ぼすには、それらの精神が身にまとうている肉体の衣を引き裂いてやらねばなりません。さうしてやることによって、かれらの魂も亦浄化され、明く直き大和心に還って、私共と一緒に天へ昇るでせう。その代り、私共も、かれらの肉体を破壊したあとで、ただちにいさぎよく腹を切って、死ななければ間に合はない。なぜなら、一刻も早く肉体を捨てなければ、魂の、天への火急のお使ひの任務が果せぬからです。

 大御心を揣摩することはすでに不忠です。忠とはただ、命を捨てて、大御心に添はんとすることだと思ひます。暗雲をつんざいて、昇天して、太陽の只中へ、大御心の只中へ入るのです。

 ……以上が、私や同志の心に誓っていたことのすべてであります。

 ……………………。

 ――本多は裁判長の顔を、目ばたきもせずに見ていた。勲の陳述が進むにつれ、そのしみの散った老いた白い頬が、次第次第に、少年のやうに紅潮してくるのを本多は見た。勲が語り終わつて、椅子に腰を下ろすと、久松裁判長はいそがしく書類をめくつたが、これは感動を隠すための無意味な仕草であることが明らかだつた。

 

 

 

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